2012年7月23日月曜日

"最後の一年間"

今月、とうとう大阪でも映画「加地等がいた ー僕の歌を聴いとくれー」のレイトショーが一週間公開された。

僕は去年、名古屋で映画を視聴させてもらった。その時に見た感想はやはり陰惨さや悲しみを感じた。それは多くの売れない音楽家が共通する何かを自分と重ね合わせてしまうからだと思うが二回目三回目見る度にそれとは違う印象を受けた。
それは加地くんの元来持っているユーモアさや楽しさ、大ボケな部分で、微かな未来への希望を感じるものだった。
映画の途中で加地くんが亡くなり堀内監督とケバブレコーズの岡氏が大阪の加地宅へ弔問に訪れる様子が導入される。このお二方には以前から加地くんが肝硬変を患っていることを伝えていたのか定かではないが(この二人と会うことが出来たがこの話をすることはなかった)やはり突然だったのは間違いはなくその部分がある意味ハイライトとなっている。

東京でワンマンコンサートをやった後完全に大阪に引きこもった加地等の亡くなるまでの一年と少しを僕が把握している限り記したい。

・2009年秋頃、大阪でスピードライダーのライブを見にくる(スピードライダー田村氏の証言)。
・2009年秋〜冬頃、加地等から連絡があり新しいアルバムが発売されるのでレコ発をからめたライブがしたいというのでほりゆうじとの2マンがいいのでは?と提案をした。かなり乗り気で彼は承諾した。
・会場は当時僕が拠点にしていたギャラリーチガーヌに決定、ほりゆうじも快く引き受けてくれた。ちなみに同じ場所でその年の12月に三沢洋紀ワンマンを決行。
・加地くんがアルコール依存症と人づてに聞いていたのでお店に酒があるのでどうしようかと思ったが僕が制御役になればいいだろうと考え日付も確定。記憶が定かではないがおそらく同じ年の12月半ばか翌年の成人の日。
・加地等に連絡。しかしいっこうに繋がらず。計画は中止。
・翌年の一月末、夜に突然加地等から電話がある。
〜ドクターストップがかかりこれ以上身体に負担がかかると命に関わる。ライブの件はほんとうに申し訳ない〜
とのこと。
僕の "もしかして肝硬変に罹ったの?"との問いに "そうだ"と答える加地くん。
僕はとりあえず安静するようにしか言えなかった。
今思い出したがその時の電話で翌月に東京でライブがあるがドクターストップがかかっているということも話していた。
・2010年2月、東京のネクストサンデーでライブ(結果的には最後のライブ)。
・それ以後加地くんから電話がかかってくることはなかった。Twitterなどで加地くん最近どうしているんだろう?と問いかけたらスピードライダーの上條さんに六月か九月に電話があったとのこと。少し安心する。
こちらから電話を、と思うが掛けても出ないことがほとんどだった。だからこちらが待つしかなかった。
・亡くなるまでは時々新聞配達をしていたようだ。亡くなった時ワインの瓶が転がっていたそうだがおそらくご両親には最後まで病気のことは伝えてなかったようだ。
・加地くんと親交のあった共通の友人二人に病気の事を伝える。ある人は驚きある人はあの若さでそれはないだろうと僕も半信半疑になった。
音沙汰がないので時々ネットで加地等の動向を調べる。もしかしたら僕が知らない間に亡くなっているのではないかと思い不謹慎だがいろんなキーワードで検索した。しかし何も出なかった。
・2011年1月半ば、ハードレインでスピードライダーのライブを見にいく。ちょっと前から計画していたジェニーオンザプラネットとスピードライダー、僕のバンドでハードレインでイベントする話を上條さんとする。そこでサプライズで加地等の出演はどうかと盛り上がる。肝硬変の件を聞いたが知らなかったらしくどうやら加地くんは全部の友人には言ってなかったようだ。
ある事情でイベント自体白紙になった。なので加地くんに連絡することはなかった。
・2011年2月2日 加地等死去。
・2011年3月6日?加地等死去がネットを通じて広まる。当初は3月に亡くなったものだと思われていた。
・翌週の2011年3月11日、東日本大震災発生。

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